2022年4月23日 サイエンスらいおんカフェ第108回(江口建さん)
※事前の広報内容はこちらです。
※宇都宮市立東図書館(サイエンスらいおん参加機関)による参考図書一覧[PDF]
今回のゲストも、前回に引き続き、豊田工業大学教授の江口建さん。
今回も全国各地からお集まりいただきました。
恒例の参加者全員の自己紹介・近況報告の後、江口さんからの哲学対話のルール説明などを行い、早速対話をスタートさせました。
ちなみに、対話のルールと心得は以下の通りです。
【哲学対話のルール】
- ホンネで話す。心にもないことは言わない。
- 他人の意見を否定しない。攻撃しない。馬鹿にしない。からかわない。
- 対等の立場で話す(身分や肩書、上下関係、年齢、性差は関係ない)。
- 互いの話を最後までよく聴く。話を遮らない。
【哲学対話の心得】
- 「なぜ?」、「どうして?」と疑問を持つ(わかったつもりにならない)。
- 「あたりまえ」だと思い込んでいることを、ひとまず全部、脇に置く(思い込みから抜け出る)。
- 性急に答えを出さない(手近にある答えに安易に飛びつかない。ねばり強く、じっくり考える)。
- 既存の知識を前提にしない(専門用語でごまかさない)。
- 自分の実感から話す(借りものではなく自分の言葉で)。
- 相手に通じる言葉で話す(伝わらなければ、相手のせいにせず、自分の伝え方が下手だと思って表現を変えてみる)。
- きちんと文章にして話す(途切れ途切れの単語で会話をしない。ただし、時間が限られているので、ダラダラと長く喋らない。コンパクトに話す)。
- 相手を不快にするような言い方や、乱暴な物言いをしない。丁寧に話す。
- 異なる考えがあることを認め合う(他者承認)。
- 違う意見を持つことを怖れない。
前回のビジネスの哲学化についての話題を受け、最初の問いは「良いチーム・良い組織とは何か?」。
これに対して、
- 悪いチーム・組織は「階層」があり、良いチームは「フラット」。
- 良いチームとは「勝てる」チーム。
- 勝てるとは単純な勝ち負けではなく、例えば、「楽しい」と思えるチームも勝ちである。
などの意見が出てきました。
ここで、「そもそもチームって何?」という問い。
これに対しては、
- 「幸せ」を求める共同体では?
- 同じ「思い」や「思い出」を共有できる人の集まり。
- 「目的」を持った集まりで、思い出だけではチームではないのでは?
- 想い出などを共有できる集まりは、チームというより「仲間」?
- 「主語」「目的語」「動詞」がある集団。
- 顔が「見える」関係か「見えない」関係か?
- いわゆる「匿名性」などに通ずるのでは?
- 例えば「宇都宮市民」というくくりはチームと言えるのだろうか?
といった考えが出てきます。
人によって「チーム」の捉え方が少し異なり、やや対立するような捉え方もここで出てきました。
対話が少しずつ面白くなってきます。
更には「(冒頭で良いチーム・悪いチームという言葉が出たが)チームの評価って?」という問い。
- チームメンバーの「コンセンサス」が取れているかどうか?(メンバー間で突き詰められているか?)
- そのチームに「居たい」か「居たくない」か。(自己肯定感が充足されるかどうか)
- 「リーダー」や「指導者」が判断する。
というような意見がありました。
ここでリーダー・指導者という言葉が出てきたため、しばらくリーダー論に移行します。
「リーダー不在だとチームではない?」という問い。
- リーダーがいないと、チームとしての判断や決断がしにくい。
- 踊る大捜査線の映画で「リーダー不在の犯罪者集団」vs「組織型警察」という構図があった。
- ネットでの炎上は、リーダーが不在でも、同じような意見の人たちの書込みが過剰に集まって炎上している。
- 「家族」では父親がリーダーになるケースが多いと思う。
- 家族では、普段はチームとして意識されないが、例えば子供の受験などの場面で、家族が一丸となるチーム性が出てくる。
- リーダーは常に1人とは限らず、「複数名のリーダー」や「全員がリーダー」もあり得る。
- リーダーが不在でもチームでは?
というように、チームのイメージが多様なのと同様に、リーダー像も皆さん多様な捉え方があるのだと、改めて認識されました。
ここで新たな問いが投入されます。
「1人でもチームになり得るのか?」
- 自分の中で「内的対話」をすることもあるので、チームと呼んでも良いのでは?
- 複数名での対話でも「発散」するより「凝集」する方が面白いので、1人でも凝集していくのはチーム性がある?
- 前述の「主語・目的語・動詞がある=チーム」とするならば、1人でもチームでは?
- テニスや卓球のダブルスはチームというイメージが強いが、シングルスも同じ目的なのでチームと呼ぶべきか?
- 内的・外的問わず、「複数の思考」があって、やり取り=対話が発生しているならば、チームと考えても良いのでは?
といったように、参加者それぞれが持っているチームや組織のイメージを、少しずつ定義していこうとする(=コンセンサスをとる)ような展開へ進んでいきました。
残り時間も少なくなってきたので、この後は少しフリーで、話題も発散していきました。
中でも、企業内や学校教育での対話の必要性について、様々な考えや知見が出されました。
- 学校内での哲学対話は、子どもたちが得られるものがあまりにも多くて、言語化することがほんの一部しかできず、なかなか教育的な評価に結びつきにくい。
- いわゆる教育困難校のようなところで通年的に哲学対話を導入し、他は何も変えなかったが、結果的に学力等の底上げに寄与した例がある。
- 学級経営に対話を導入しただけで安定的な日常を得られたという、いわゆる「安心感」の担保としたケースがある。
- 自分の考えや思いを「最後まで聞いてもらえる」という安心感。
- 昔の社会や教育は「答えのある問い」に向かっていけばOKという時代だったが、現在やこれからの未来は「答えのない問い」に向かわなければならない。その力を付けるために、企業や学校などでも対話という手法を導入しようとしているのではないか?
などのご意見です。
毎回の対話同様、結論を出すことを目的としていないので、多少時間オーバーしながらも、今回は締めさせていただき、あとはそれぞれご自身で「お持ち帰り」いただきました。
私自身も、「チームやリーダーの形が、自分の想像以上に人によって違う」といったお土産を多く得ることができました。
また、個人的には「(内的・外的問わず)複数の思考が互いに”対話”できる集まり=”チーム”ではないか?」というのが、対話直後での考えとなりました。
機会があれば、また皆さんとお話したいですね。
ご参加いただきました皆様、ありがとうございました。
[文責:藤平 昌寿(とちぎサイエンスらいおん客員研究員)]