イベント開催報告 スライド2

Published on 5月 6th, 2021 | by サイエンスらいおん事務局

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2021年3月13日 とちぎサイエンスらいおん第8回公開シンポジウム「技術といのち」

2021年3月13日(土)に第8回とちぎサイエンスらいおん公開シンポジウムがオンライン(zoom)で開催されました。
事前告知内容はこちらです。

今回は、帝京大学・自治医科大学との共催により、技術死生学をベースとした「技術といのち」をテーマに開催いたしました。JST-RISTEX ELSI 技術死生学プロジェクトの代表で、自治医科大学講師の渡部麻衣子さんからレポートをいただきましたので、掲載させていただきます。

また、今回は講演部分のみ動画公開しております。ぜひご覧ください。


第8回とちぎサイエンスらいおん公開シンポジウム「技術といのち」開催報告

渡部麻衣子(自治医科大学)

 

はじめに

20210206-01_シンポジウム08a-チラシ最終稿 今回のシンポジウムは、自治医科大学医学部総合教育部門倫理学研究室が、JST-RISTEX ELSIプログラムの助成を受けて、昨年9月から3月まで行った「「技術構成主義」に立つ「生と死」をめぐる倫理の分析と社会的議論の啓発に向けた企画調査 」の成果を基礎として、技術と共に変容する死生観について考えることを目的に開催されました。シンポジウムに先立って、サイエンスらいおんカフェにて、昨年10月より、プロジェクトメンバーが、それぞれの研究について少しずつご報告させて頂いてきました。技術の発展が、「生命」のあり方を変容させていく中で、そのことについて社会の中で議論する場を形成することが、プロジェクトの目的の一つです。シンポジウムでは、プロジェクトメンバーの視座に、岩崎秀雄先生の「生命美学」の観点、佐野和美先生の「生命倫理」の観点を加え、より包括的な視座から「技術といのち」の関係性を論じる場を作っていただきました。オンライン開催で、且つ登壇者が多く、一般参加者との議論の場を作ることができなかったことは心残りですが、今後のプロジェクトを通じて、またサイエンスカフェにおいても、さらに皆様と議論を続けていければと思います。

基調講演(岩崎秀雄さん)

スライド7 基調講演では、早稲田大学の岩崎秀雄さんによる『生命の創造と慰霊の関係性をめぐって』と題してお話しいて頂きました。岩崎さんは、シアノバクテリアの概日リズムを研究する分子生物学者であると同時に、生物を題材とする現代美術の製作を行う芸術活動「生命美学」のプラットフォームとしてmetaPhorestを主催され、ご自身でも作品を発表されています。2016年には、研究者や地域関係者の協力を得て行った学際的プロジェクト、「aPrayer. まだ見ぬつくられしものたちの慰霊」の成果として、茨城県北芸術祭にて『人工細胞・人工生命之墓』、『微生物之墓』を発表されました。ご講演では、このaPrayerプロジェクトの成果から、「慰霊」を補助線として「いのちと技術」の多層的な関係性を思考する試みを紹介して下さいました。

aPrayerプロジェクトの背景には、草花や人形、針、あるいは虫、そして実験動物など、様々な存在を慰霊の対象としてきた日本固有の文化があります。こうした慰霊の文化において、生命は、「感得者と対象の関係性に宿る」、つまり「間主観的存在」として位置付けられています。この位置付けには、人工的に合成した細胞などの人工物にいかにして「生命」が宿るか、と考える立場とは、異なる生命観が反映されています。しかし、これら二つの立場は、対立的に存在しているのではなくて、一つの文化そして一人の人の中にも共存し得る、ということをaPrayerプロジェクトが表してきました。発表中、岩崎さんの紹介された映像では、aPrayerプロジェクトで行ったインタビューに答えて、研究者が、「人工細胞をつくる過程での哀しみ」を吐露します。DastonとGalison(2011)によれば、近代科学は、感情を排した客観的視覚をその規範としてきました。しかし、この研究者の吐露は、近代科学の規範は、対象への感情を消滅させたわけではなく、表現の機会を失わせてきただけだということを表しています。「慰霊」という営みは、分子生物学の実践の中では表現の場を持たない、しかし対象との間で感得され得る「生命観」を表現する場を作り出し、間主観的存在としての「生命」に正当な位置付けを付与している、と言えそうです。

一方で、この「正当化」は、人間との関係性の中で生じるという意味では、「人間中心主義」的です。人間は「生命」を、「自律的かつ主体的」という人間のシステムを通して、感得するのではないか?と岩崎さんは問います。しかしまた、そうした「擬人性」に組み込まれない対象にも、人は、驚きと共に「生命」を見出し得ます。その象徴が、慰霊碑にも用いられた「石」です。

無機的な物質である「石」は、近代以降主流の思想であり続けてきた機械論的価値観では「死」を象徴します。しかし、古来西洋にも存在してきた、あらゆるものに生命が宿るとする「物活論」では、石にも生命があると考えられてきました。ですから、石碑は、生命のモニュメントとしての石もまた生命である、という入れ子状の構造を持つ表象形態として捉えることができます。また、「時間性」に着目した場合も、「石」は興味深い存在です。人間よりも長い時間軸の中に存在する「石」で「儚い命」を慰霊することは、一見逆説的です。けれども、生命は、歯や骨のように長い「時間性」を有する多様な形態にも表されます。長短ではなく、「時間性」を持つということに着目し、これを「生命」の性質の一つとして捉えれば、「儚い命」と「石」の間には、「生命」としての共通項を見出すことができます。この「時間性」への関心は、岩崎さんが「概日リズム」という「生命の時間」を研究の対象とする分子生物学者であることから導かれるもののように思われます。分子生物学と美学を横断する関心が、「慰霊」という営為を通して新たな「生命」を世界に間主観的に存在させている、ということ自体が、生物学が物理的に「生命」を作り出そうとしている現代の「生命」の有り様の表れであるとも言えるかもしれません。

講演1(長谷川愛さん)

スライド11 続いての講演では、長谷川愛さんが、スペキュラティブ・デザインとしての「現代版供養絵額」製作プロジェクトを紹介して下さいました。スペキュラティブ・デザインとは、長谷川さんが学んだ、英国のRoyal College of Artsのアンソニー・ダンが提唱したデザインの立場で、理想的未来を提示するのではなく、多様な未来の可能性を提示し思考することを目的としています。この立場から、未来の「死のあり方」を考えるために、長谷川さんが選んだのが「供養絵額」です。供養絵額とは、幕末から明治初期に岩手県遠野市で多く作られた、遺族や友人が故人を供養するために寺院に奉納した板絵です。これもまた「慰霊碑」の一つの形。長谷川さんは、この供養絵額に、11月23日から15日まで岩手県遠野市において行なったフィールド調査において出会いました。『遠野物語』で知られる遠野は、過酷な環境の中でこれまで数々の飢饉に見舞われ、その過程で一度に多くの住人を失う「多死」が経験されてきました。遠野に残る妖怪伝説は、そうした経験の中で作り出されたものとも言われます。「供養絵額」もまた、過酷な環境で生きてきた人々に、せめて死後の世界ではよく生きて欲しいと願う遺族の想いが込められて、作られたものです。この時代、「死後の世界」はあくまでも想像の世界でしたが、現代では、死後も情報が残り続けることで、死者がヴァーチャルな世界に「存在」し続けることが可能となっています。そしてヴァーチャルとリアルの境目は今とても曖昧です。紅白歌合戦に「出演」したAI美空ひばりさんの「存在」は、そのことを表す代表例と言えます。現代版供養絵額は、死後の世界を想像し、近しい人の死を悼む人の普遍的感性を、現代の技術で表すことを通して、そこに生じる様々な倫理的諸問題を考察することを目指しています。

講演2(森瑞枝さん)

スライド13 「慰霊」は、遺されたものが「死者」と関係を結ぶことで、「死者」を間主観的に世界の中に位置付ける装置と言えそうです。そうした「間主観性」の装置は、日本の伝統的な表象文化の中にも、見出すことができます。その一つが「能楽」です。

二つ目の講演は、シテ方金春流能楽師の森瑞枝さんが、『能における生命観』と題して話題提供して下さいました。能楽は、しばしばギリシャ劇と類似すると言われますが、両者における「人の死」のあり方は対照的だと、森さんは言います。なぜなら、ギリシャ劇において人は死すべき存在ですが、能においては、生と死を自在に行き来する存在だからです。そして能は、そうした物語を「鑑賞」するだけでなく、演じ体験するための芸能としてあらゆる社会階層の人々に受容されてきた、という特徴があります。森さんは、そうした能を演じる体験は「死の練習」となってきたのではないかと言います。能が「生ー死ー死後をめぐる様々なケーススタディーを伝えてきた」とすればたしかに能は、現代において死を思考するための道しるべとなり得ます。プロジェクトでは、「八島」「伯母捨」「花筐」「卒都婆小町」「善知鳥」の五曲の仕舞を通して、「能楽における死生観の現代的表象のあり方」を構想してきました。発表では、森さんは特に「伯母捨」を取り上げました。作中で描かれるのは、主人公の老女の亡霊は生と死の間に留まる姿です。旅の僧のもとに表れ、「そのいにしえも捨てられて ただひとりこの山に すむ月の名の秋ごとに 執心の闇を晴らさんと 今宵あらわれいでたりと 夕蔭の木のもとに かき消すように失せにけり かき消すように失せにけり」と謳う老女の「執心」とは、生そのものに対するものなのか、それとも彼女を「ひとり」にした誰かに対するものなのか。死へと向かう時に生じる「執心」のあり様を考えることは、「慰霊」とは真逆の視座から、死という現象を捉える思索を導いていきます。

講演3(塚田有那さん)

スライド15 「死の練習」としての「能」が、「一人称の死」を照射するとしたら、三つ目の講演でプロジェウトメンバーの塚田有那さん(Reframe Labメンバー、編集者、キュレイター)が報告してくださった、岩手県遠野市に残る民話は「三人称の死」を包含すると言えるかもしれません。前述の通り、遠野は歴史的に「多死」の経験を重ねてきた地域です。この経験の記憶が、柳田國男が伝えた妖怪伝説や民俗芸能の形で継承されていると言われます。そうした「伝承」は、社会が「多死」を受容し生活の中に埋め込んでいく一つの形式として捉えることができます。そう考えると、現代にもそれは「心霊現象」言説という形をとって存在している、ということを講演を聴きながら思い出しました。詳しくは、シンポジウム翌々週のサイエンスらいおんカフェで発表された映像作品にて、ご覧頂きました。

講演4(佐野和美さん)

スライド17 遠野における「死」をめぐる文化は、自然環境との関係性の中で創られてきたものですが、現代の「死」は、特に医療技術の発展と切り離すことはできません。医療技術が発展し平均寿命が延びる中で、今私たちが直面しているのは「どう生き延びるか」ではなくて「どう死ぬのか」という問いです。四つ目のご講演では、帝京大学の佐野和美さんが「医療技術と生命倫理」と題して、各国で議論の進む「安楽死」問題について生命倫理の立場から話題提供くださいました。「安楽死」は、一見、生きることへの「執心」の対極から生じる行為です。けれども、「自律した理性的な行為主体」を基本単位とする近代の人間像を「尊厳」の根拠とし続ける結果である、という意味では、これもまた何かへの「執心」の結果ではあるかもしれません。能が芸術へと昇華し表象してきた「執心」と、技術的可能性の関係性が、ここでも問題となっています。

講演5(水上拓哉さん)

スライド19 さて、最後のご講演は、技術の作り出す新たな存在について。プロジェクトメンバーの水上拓哉さんによる、「フィクション論から考えるソーシャルロボット」でした。AIを搭載し自律的に人と関係を結ぶことが可能な「ソーシャルロボット」については、それが行為の責任を負う主体となり得るかどうかについての議論が続いています。しかし、水上さんはこうした議論に対して、ソーシャルロボットを「小道具」としてみなす立場と提唱しています。つまり「道具」を使う側に立つ「主体的行為者」でも、使われる側に立つ「道具」でもなく、「虚構上の真理を作り上げる物質的なモノ」とみなそうという提案です。このようにみなすことで、ロボットに「行為者性を感じる」ことを否定せず、行為者性が実在すれば生じる責任の問題を回避することができると、水上さんは言います。同時に「小道具」の作り出す「虚構」の適切さに配慮する必要性は、「適切なデザイン」の指標として残ります。

この水上さんの議論は、基調講演の岩崎先生の議論における「生命」を「間主観的存在」としてのみなす立場と並べて考えることができます。媒体が何であるにせよフィクションが成り立つために必要な「虚構の正当性」は、間主観的に見出されるものだからです。そして、私たちがソーシャルロボットに「生命らしさ」を見出すとしたら、つまりソーシャルロボットが「生命」を「フィクション」の形で表す「小道具」なのだとしたら、そこで表されているものを通して、私たちの「生命観」の一端を知ることができるのかもしれません。

 

人は世界を、技術や表象文化といった「媒介」を通じて感得し、また、創ってもきました。このシンポジウムを手掛かりの一つとしながら、どのように感得し創ることが適切なのかを、多様な可能性の中で論じていきたいと思っています。

 

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